3. 薬とドーピング:プラセボ反応とノセボ反応

「励ましの声」が選手に勇気を与え、好成績につながることはよくあります。その反対に「心無い声」がダメージを与えることもあります。薬の効果が単純にパフォーマンスに繋がらない場合があります。こういった事はどのようにして起こるのでしょうか。

松戸歯学部 三枝 禎

 クスリとしての作用はないが外見はクスリと区別がつかないような化学物質の投与が心身の不調を和らげることがあります。こうした薬理活性がない物質の投与がクスリの効果のような好ましい現象を起こすことはplacebo effect(プラセボ効果)と呼ばれています。Placebo(プラセボ)はラテン語では“I shall please”「私は喜ぶであろう」という意味。プラセボ効果に関わるクスリとしての作用はない(薬理活性がない)物質は,プラセボのほか偽薬(ぎやく)とも呼ばれます。粉末のクスリならば,見た目がよく似ている化学物質の乳糖やデンプンがプラセボとなるでしょう。痛みや不眠・不安など,情動が関係する症状にはプラセボ効果が認められやすいと言われています。ある新しいクスリの有効性を臨床試験で実証するには,このクスリは同じ外見のプラセボの作用を上回らないとなりません。プラセボ効果はどのようにして起こるのでしょうか?ヒトの痛みを対象とした研究からは,プラセボの鎮痛作用の発現にいわゆる脳内麻薬である内因性オピオイドの受容体の活性化が関わることが示されています(Zubietaら,Journal of Neuroscience,2005年)。
 プラセボのように見かけがクスリそっくりの物質の投与も行なわないのに,言葉や行為だけでクスリを投与したかのような治療上好ましい現象が起こることもあります。この場合,プラセボ効果と区別してplacebo response(プラセボ反応)が見られたと言います。医療の場で受ける思いやりのある言葉のほか,治療を始める前の分かりやすい説明,前向きになれるコミュニケーション,負担を低減させる手当てなどはプラセボ反応の誘因となるでしょう。知らぬうちに治療上の利益につながっているプラセボ反応はたいへん身近なものです。
 一方で,薬理活性がない物質の投与でもクスリの副作用・有害事象のような現象を惹き起こす危険があることも指摘されています。こうした現象は,nocebo effect(ノセボ効果)と呼ばれています。Nocebo(ノセボ)はラテン語では“I shall harm”「私は傷つくであろう」の意味で,前述のプラセボに対応する用語です。ノセボ関連の研究は倫理上の制約が大きいため実施が容易ではないのですが,ノセボが起こした痛覚過敏にはコレシストキニンという脳内にある神経ペプチドの作用が関わることが指摘されています(Benedettiら,Neuroscience,2006年)。プラセボ反応と同様に,何も投与しない条件下で受けた言葉のほか,状況の予測が好ましくない症状を身体に起こすこともあり,この現象はnocebo response(ノセボ反応)と呼びます(Benedettiら,Neuroscience,2007年)。治療中に強く感じた治療のリスク(不利益)が引き金となった「症状が悪化するのかも」という心理が関わるノセボ反応は,クスリの作用に影響を及ぼす可能性すらあります。例えば海外で行なわれた鎮痛薬の投与中止に関する臨床的な研究では,中止が予見しにくい条件に比べ中止が分かりやすい条件のほうが鎮痛効果の消失が明らかでした(Collocaら,Lancet Neurology,2004年)。このことは治療上の不利益を患者さんが重く受け取ることで起きたノセボ反応は,本来治療で得られるはずのクスリの効果を打ち消してしまう危険があることを示唆しているかもしれません。この報告を根拠に患者さんへの情報提供を怠ることは正当化できませんが,患者さんの知る権利は侵害せずノセボ反応を最小にするような思慮深さが医療の場では必要でしょう(Benedettiら,World Psychiatry,2019年)。
 プラセボ反応とノセボ反応に関わる生理活性物質の中枢神経系での作用機序の研究は,暗示や予知に関わる脳内の神経機構の一端の解明につながる可能性を秘めています。この神経機構は,運動パフォーマンスの向上または低下とどの程度関係するのでしょうか?競技の指導者の言葉,仲間や自分自身の励ましも作用するのでしょうか?たいへん興味深いところです。