7. ドーピングに対する検査技術:アンチドーピングに対する遺伝子検査の役割

遺伝子ドーピングは従来の方法では検出できません。すなわち新しい検査技術の開発が必要になります。そしてその為には遺伝子ドーピングに関する正しい知識が必要です。

薬学部 張替 直輝

 遺伝子の導入や組換えの技術は、分子生物学関連の研究室では日常的に用いられてきました。現在では、微生物や細胞を用いたバイオ医薬品の製造、トウモロコシや大豆などの植物やサーモン(日本では未承認)の遺伝子組換え食品に応用されるなど、産業にも広く取り入れられています。更に、ヒトに対しても核酸医薬品として応用され、2019年8月現在、9種類が世界に出回っており、今後も開発が進むことが予測されます。このような遺伝子技術はスポーツ分野にも無縁ではなく、世界ドーピング防止機構(WADA)も遺伝子ドーピングを警戒し、2018年の禁止リストに、核酸や核酸誘導体のポリマー、遺伝子発現を調節に関わる物質、遺伝子導入した細胞を掲載しました。実際に、遺伝子技術は「人間自身」の限界にチャレンジするスポーツ分野と相容れないことは明らかです。

 生物を構成する細胞の遺伝子の本体であるDNAには、生命活動を支える様々なタンパク質 (ヒトの場合、約2万種類)の情報が含まれています。そして、生体が特定のタンパク質を必要とするとき、DNAにある関連した情報をRNAにコピーし、そのRNAを元にタンパク質を合成します。この仕組みを利用し、外部からDNAやRNAを導入及び組換えすることで、特定のタンパク質の合成を人為的に調節できます。これが、遺伝子技術が着目される理由です。実際に、バイオ医薬品はヒトのホルモンや酵素のDNA配列を導入した大腸菌、遺伝子組換え食品は除草剤耐性タンパク質などのDNA配列を導入した植物を用いています。また、核酸医薬品の幾つかはRNAに結合するアンチセンス核酸で、病気に関わるタンパク質の合成を阻害します。

 生命科学分野では、特定の遺伝子の発現量を増加・減少させた遺伝子改変マウスを作成し、特定のタンパク質の働きを解析します。その過程で、エリスロポエチンの過剰発現では酸素運搬する赤血球の増加、ミオスタチンの遺伝子欠損では筋肥大するなどの運動能力と関連する結果が得られています。また、体質に左右する一塩基多型 (SNPs)の研究も進み、アンジオテンシンⅠ転換酵素 (ACE)やα-アクチニン-3 (ACTN3)などのスポーツのパフォーマンスと関連するSNPsが発見されています。これらの知見は生命科学や医学では有意義だが、ドーピングに悪用される可能性があります。

 しかしこれらの知見は、それらの遺伝子及びタンパク質の働きの一部だけであり、その他の生体機能への影響の多くは明らかもなっていません。その点、核酸医薬品は、細胞、動物、ヒトで多くのデータを収集し、主作用だけでなく副作用も含め確認して有用性を検証しているため、大きく異なる。更に、ゲノムDNAへ遺伝子の導入や組換えを行った場合、その遺伝子は取り除けません。遺伝子導入された細胞は分裂を繰り返し、一生その作用が持続します。更に受精卵への遺伝子導入では、次世代にも導入遺伝子が継代されることにもなります。

 多くの危険があるにも関わらず遺伝子ドーピングが警戒される理由は、恐らくその検出が難しいことにあります。導入遺伝子は塩基配列の違いはあるものの、体内のDNAやRNAと同じ構成分子であるため、体内に元からあるものと外から導入されたものとの判別は簡単ではありません。また、局所的な遺伝子導入やゲノムDNAに導入されない一過性の効果のみのアンチセンス核酸の場合、その導入遺伝子の痕跡となる物質が、検査に用いる血液、尿、組織などの試料中にごく僅かしか存在しない場合もあります。

 それに対してドーピングの遺伝子検査法として、血液や筋肉組織の検体から導入遺伝子特有のエクソン-エクソン結合部位を検出するポリメラーゼ連鎖反応 (PCR)などの遺伝子増幅法、遺伝子導入で生じる対象遺伝子のコピー数の変化を捉えるデジタルPCRなどの開発が進められてきました。そして、近年では次世代シークエンサーを用いた高感度で遺伝子配列も確認できる検査法なども開発され、検出の精度と感度が向上しています。それでも遺伝子技術の進歩は目覚ましく、これらの検査法を免れる新しい技術が生まれる可能性もあります。従って、一般的な薬物のドーピング検査で既に行われているように、将来、新しい検査法が開発されたときに検査できるよう、検体を保存して置くことが必要です。

 最後に、遺伝子ドーピングは他のドーピング以上に選手の健康への影響は未知であり、導入した遺伝子が体内に持続的に残る可能性もあり、このような危険性を選手に啓発していくことが重要です。そして、遺伝子技術の進歩と併せて遺伝子検査法の改良を進めドーピングへの抑止力とすることが、遺伝子検査法の役割として期待されます。