7. ドーピングに対する検査技術:遺伝子ドーピング

遺伝子治療は医療用技術として開発されたものですが、ドーピングへの悪用が予想されています。遺伝子ドーピングがどのようなものであるのか理解することが抑止力になります。

薬学部 榛葉 繁紀

 最近になって「遺伝子ドーピング」という言葉を耳にすることが多くなってきました。実際に多くの大手メディアでもこの言葉に注目して取材が進んでいます。

 世界アンチ・ドーピング機関(WADA)では、2002年3月に遺伝子ドーピングに関するワークショップを開催して、2003年1月1日以降、WADAの禁止物質・禁止方法を列挙した「禁止表」に遺伝子ドーピングも掲載しています。

 それでは遺伝子ドーピングとは、どのようなものでしょうか。従来、ドーピングといえば、筋肉を増強させるステロイドや興奮剤の使用などの「薬物ドーピング」や筋肉への酸素運搬量の増加を目的として輸血をする「血液ドーピング」などがその代表例でした。それに対して、遺伝子ドーピングの理解に関して曖昧な方は多いかと思います。遺伝子ドーピングとは、ある特定の遺伝子を体内に導入して、その遺伝子量(=タンパク質量)を増やすことで身体機能を上げるものです。この技術そのものは遺伝子治療に用いられているものであり、今後、先天性の遺伝子疾患だけではなく、がんやAIDSを始めとした様々な病気の治療に応用が期待されています。

 現在、ドーピング行為のターゲットとして考えられている遺伝子としては、赤血球の産生を促進して酸素運搬能力を高める造血因子「エリスロポエチン(EPO)」、EPOの合成を促すタンパク質「HIF-1a」、筋肉量をコントロールするタンパク質「IGF-1」、「成長ホルモン」、「変異ミオスタチン」などが挙げられますが、この数は年々増加すると予想されています。我々自身も、最近、体内時計を調節するタンパク質「BMAL1」が筋肉量のコントロールに関わっていることを報告しました。

 副作用に関しては、例えばEPOをターゲットとした場合、他のドーピングなどと同様に赤血球の異常増加により血管が詰まりやすくなったりすることが予想されます。しかしながらHIF-1aやBMAL1などの転写因子の遺伝子を体内に入れた場合、予想外の細胞応答が起こり、時として重篤な副作用が起こる可能性は高いと考えられます。また導入した遺伝子が染色体(DNA)中に取り込まれた場合、その周辺の遺伝子が影響を受け、この場合も予想できない副作用が起こる可能性があります。

 遺伝子ドーピングは、専門的な知識と技術が必要なため、個人で実行するケースや「うっかりドーピング」の可能性は低いと考えられます。しかし現在では世界的に組織的なドーピングが行われるようになっており、しっかりとした監視体制を整えなくてはいけません。

 遺伝子ドーピングの場合、薬物とは異なり尿や血液の検査で見つけることは大変困難です。例えばHIF-1a遺伝子を体内に入れてアスリート自身のEPO生産能力を高めた場合、EPOそのものはアスリート自身で作られたものであり、ドーピングを証明できません。またHIF-1a遺伝子を調べても、それが体外から入れられたものなのか、あるいはもともと生まれた時から存在していたものなのかは判断できません。遺伝子ドーピングの確定は、遺伝子を体内に入れる際に用いるベクターDNAの断片を検出することが目標になります。ただしその場合も生まれつき存在している遺伝子断片なのか、あるいは生後ドーピング目的で入れられたものなのかの判断は非常に難しく、体細胞と生殖細胞の遺伝子情報の比較などから行わなければなりません。またベクターDNAの種類が変われば、さらに検出と判断は難しくなります。

 一部報道では「WADAが、すべてのオリンピック選手に遺伝子コードのコピーの提出を求めることを検討している」とされています。しかし、この方法では、アスリートのプライバシーに抵触する可能性があり、またアスリートから提出される遺伝子が改変される前のものであるという保証はありません。したがって現時点では、遺伝子ドーピングを防止する効果的な指針やプランはまだ示されていません。その一方でWADAが把握している限りでは、遺伝子ドーピング陽性の実例は確認されていません。これは遺伝子ドーピングが技術的に難しいことと有効性がヒトで実証されていないからです。ただし科学の進歩とともに技術が改善されたり、有効性が証明されるなどして遺伝子ドーピングが実行される可能性は十分にあります。

 遺伝子ドーピングが広がってしまう前に、他のドーピングと同様にアスリートだけではなく、その関係者を十分に教育し、遺伝子ドーピングにまつわる倫理的問題や健康リスクについての啓発活動を積極的にすすめていくことが必要です。また基礎研究を進め、反対に「こんな事も出来てしまいますよ」ということを広く知らしめることが抑止力になっていきます。